昭和45年8月3日 朝の御理解        (末永信太郎)    №45-098


御理解第九十五節
 世には神を売って食う者が多いが、此方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ。




 色々に説かれますように、まあ、今日はここんところ。信心、特に、まあ、教会なら教会の場合、生活のための、まあ、お取次ぎというようなことであってはならない。もし例えば、教会の教会長先生がその一家を、その一家の生活手段のために、もし日々、まあ、言うならここに座っておるといったようなことで、もしあるとするなら、これは、神を商法に使っておるようなものではなかろうかと、こう思います。
 ね、生活手段。ね。いわゆる、本当の意味においての、世の中の難儀な氏子が、取次助けられることのために、神命を落として、ご神前奉仕をしておる。まあ、そうでなからなければならない。けれども、形の上においては、それによく似ており、または同じなのだけれども、内容はその教会が維持して行かれることだけのための手段にしか過ぎんと、いうことになっておりはせんかというようにですね、猛反省を促されておるような風に、今日はここんところを感じます。
 先年、ある先生が見えられて、この頃はお取次ぎの先生じゃなくて、お取り込みの先生が多うなりましたち言うて、言われたことがある。ね。お取次ぎはせん、信者の願いを神様に取次、神様の思い、神様の願いを、また信者に取り次ぐ、と。それが、御取次の働きになって来なければならない。ところが、神も助かり、氏子も助かりといったような働きになって来ない。ね。
 それもやはり、御結界がこうしてあって、御結界で先生が座って、様々な願いをしておって下さるけれども、そういう働きになって来ない。言うなら、信者が助からない。本当のお取次が出けていない、ということになったら、これはまず、自分のお取次をさせて頂いておるその内容が、どこにか、ただ生活手段のためのことになっておるのではないか、と。
 これは、私も引き上げてすぐの時分でしたが。戦死者の遺族の者の集いがございましてね、草野の小学校の(こうとう?)でした。その中に、やはり草野の町に何軒もお寺さんがありますが、やはり、息子さんを戦死なさったところのお父さん。いわゆる、そこのお寺も一緒に見えておられまして、色々な話が、町で戦死者の、ね、合同のお葬式がございます時のことの話し合いがあっておりました時に、あるお坊さんがですね、ちょうど夏になりかけておりましたが、お道では装束と、こう言うですが、お寺さんはそれを衣と言うですね。町のね、そのお礼というものが、まちっとどうかしてもらわんとね、この頃の坊主では、衣のね、衣の(袖ちん?)もないということを発言されたんです。
 皆さんが、それはあ、やっぱほんにそげんでしょうね。これは町としても考えなきゃいけないという話が出ました。ね。だから、もうそれはね、いわば、まあ、一般に通用する当たり前のこと。お寺さんだって、やっぱり商売だから、食べて生きなさらにゃならんのだから。それはやはり、町としても少し考えなければいけないということ。ね。
 ですからね、まあ、現在の仏教にそれを求めるということは無理なことでありましょうけれどもです、まあ、それがいわば当たり前ですけれども。金光教のお道の信心者の上には、それがあってはならないと思うですね。やっぱり先生方でもですね、他所の御大祭の時、やっぱ特に夏の御大祭なんかで、こう汗がいっぱい出ますしね。もう、その教会を見てから、あそこん時には一番よか装束を着て行く。もう、普通ん時にゃ、自分方の月次祭に使いよるとでよかちゅうごたる風なね、生き方の先生方も段々この頃増えてまいりましたけどですね。もう、神様にじゃない、その教会に、教会の、まあ、に対して装束を着て行きよんなさる。
 そんな感じですね。まず持って私は、本当に日々お取次の正業と、御取次をいわばして下さってある。いわゆる、神勤をして下さってあるそこの御教会にです、ね、本当のお取次の働きがもしあっていないとするなら、これは本当に、本気で教師たる者は考えなければいけないことだと、こう思います。ね。
 形の上においては、変わらない。まあ、そこで、まあ、私は今日、この九十五節を頂かせてもろうて、世に神を売って食うという、ね。例えば、お宮さん辺りでも、結婚式場が設けられて、神前結婚。まあ、一回は奉仕するといくら、と。まあ、黄道吉日といったような日には、もうそれこそ大きなお宮さん辺りでは、もう、ところてんを押し出すように、もう次から次と待っとって、大繁盛しておるわけですね。
 また、それを受ける方も、もう神前結婚の方が簡単でよかばのちゅうごたる風で、まあ、神前結婚を選ぶ人達もある。だから、それでも一つも障ってはいないようですね。例えて言うなら、もう、お供え物はちゃんとしたぎりですね、言うならば。そして、その日、十人あろうが、二十組あろうが、やっぱり、お供えはそれだけで、祝詞も同じ祝詞で。さあ、済みました、次どうぞといったような、これを、まあ、金光教的な見方から言うと、やはり、これはもう、商売ですよね。
 本当にその、例えば結婚式が結婚式として、神様にそのことをお願いしたり、ご報告申し上げたり。または、真心を込めてお供えをさせて頂いたり。もちろん、お祝詞なんかでも、その人その人の内容が汲み取られてからのお祝詞が作成されたり、というのが、金光教的生き方なんですけれどもね。だから、それから見ると、やはり、それはもう、今のさっきの坊さんの話じゃないけれども、もう、当たり前のこと。
 また、それを受ける方も当たり前として思うとるけれども、そこには、いわゆる生きたものというものを感じることは出けませんですね。いわゆる、神様の本当の意味での御加護を受けることのために、そういうことで、はたして出来ようか。ね。装束をつけて、結婚式をしてあげるということは出けてもです。ね。それが、んなら、その、結婚のそれを受けた方から申しましてです。ね。いわゆる、神の御加護が受けられるというような意味ではなくて、もう、簡単で済むから、神前結婚。
 また、それを奉仕する方も、ね、一組いくらと、日に何組もある。だから、そこには思いもなからなければ、真心もない。だから、これなどは、まあ、歴然たる神を商法に使ってるわけですね。けども、もうそういう良心というものが、もう麻痺してしまっておるから、それを、まあ、する方も受ける方も感じないけれどです。なら、生きた神を信心せよと、こう仰る。天も地も昔から死んだことなし。ね。
 生きた神を信心し、生きた私どもの心というの、生き生きとしたいわゆる心を持って神様に向かい、ね、そこから神様のいわばおかげを頂こうと願わせてもらい、また、それを取り次がせてもらう金光教の信心においては、それではいけないことが、まあ、歴然としてはおりますけれどもです。ところが、内容が段々その、そういうことになって行きよるような傾向がある。教祖様もまた、先々、そういうことになってはならないと言うて、こういう御教えを、まあ、下さってるんじゃないかと、こう思うんです。
 これはだから、受ける方も、また奉仕する方も、そこんところは、段々はっきり出来て来なきゃいけないですね。今日は親教会の夏の御大祭であります。こうやって、まあ、これはご案内と言うよりも、他所の教会が必ず、こういう風な通知がまいります。ね。それは、やっぱそこの教会によっては、もう、ここのはご案内です、他所の教会のは通知なんです。ね。
 ですから、一番最後のところでもですね、右の通りにつき、おくり合わせ、お参り下さいますようお知らせ致します、とある。どうぞお参り下さいと言うのじゃない。これはもう、信者としてはです、当然のこと。だから、忘れておる人があるかも知れんから、これは知らせるという訳なんです、お通知なんです。
 ですから、なるほど、それこそ看板に偽りさえなかったらです、そういうお祭りが仕えられ、そういうお参りの仕方が出来れる教会であり、信者であれば、これは本当に有り難いことだと思いますですね。ところが、ここのはそうではない。ここのは、いつもご案内とある。ね。その替わりに、まあ、信徒会長、ここでそのかわり、これは、まあ、教会からこれを出してある。
 と、ここでは信徒会会長の名において、または、総代の名においてご案内。もちろん、ここでは毎日、または、ここでの本当の信者さんというのは、ご案内を例えば受けなくても、もう、一月も前からその御大祭のことは祈りに祈り、願いに願ってあるくらいですから、必要ではないですけれども。ね
 やはり、ここにご縁は頂いておるけれども、時々しかお参りが出けないという方達のために、総代さん方の親切で、ね、どうぞお参り下さいという風な案内状になっておる。だから、これはもう、形の上においてはですね、もう絶対これが本当です。ね。
 金光教の案内状であってはならない、通知でなからなきゃいけん。やはり、そのために知らせてある、と。ね。お参りをして下さい、そのために案内をするというのは、だいぶん違うですね。ですから、ここでは私もやっぱりそういう精神ですから。私は、参っても参らんでんよかと、まあ、信者さんが。ね。けれども、信者さんの側としては、まあ、幹部の方達としては、一人でも多くご案内をして、連れのうてお参りをさせて頂こうというような。また、それが信心だというので、ここのはご案内になっとるわけなんです。
 例えば、これをちょっと読んで見ましょうかね。来る八月三日午前十時三十分より、夏季大祭奉仕、夏さくの御礼、第一ね。その眼目、五穀豊穣諸事繁盛、悪疫予防祈願。ね。そして、次に教話と。ええ、例えば、商店が大売出しを致しますね。今度の大売出しは、とりわけ、こういうようなものを特価品としてご奉仕致します、と。ね。それはもう、そういう、まあ、チラシを配る。ね。
 もう、夏にかかる頃には、やはり夏物の特別大売出しと、例えば呉服屋さんで言うなら。だから、そういうお勤め品、いわゆる特価品がこう、ずうっと、普通は百円だけども、大売り出しの日は八十円だという風に広告を致します。ね。
 だから、こういう例えば、んなら、ご案内通知といったようなものでもですね、いわば、売らんからのことの為にです、信者をただ集めることだけの為にです、これが案内されておる、通知されておるとするなら、これは、いわばデパートならデパートの大売り出しのチラシと五十歩百歩ですよね。
 はあ、今度の大祭は、もう悪疫予防が大安売り。今度の御大祭は、もう、五穀豊穣の特価品が出て来るというような感じになって来るんですよね。ところが行ってみたところがです、ほれはもう、なるほど値段なその通りばってん、品物が(すあきひん?)であった。
 言うなら、五穀豊穣の時にあれだけお供えしたり、あれだけしたけれども、いつもよりか悪う出けた、と。悪疫予防どころは、かえって、こんなつに病人が出けた、と。ね。御祈願は受けたり、お願いをさせて頂いたけれども、そうだったということになると、やはり看板に偽りあるということになるわけ。ね。
 だから、本当にそれがね、いわゆる、生きた働きとしてです、その生きた働きがなされないならばです、ね、私はこれは、やはり取り次がせて頂く者、または、それを願わせてもらう者、拝ませて頂く者の心というものが、信心というものが取り上げられて、再検討されなきゃいけん。これは、だから取次者だけの責任でもないということですね。
 取次者もそこんところを、真心を込めた取次が出来なきゃならん。また、それを取次を願う者も真心を込めた、いわゆる信心にならせて頂いての御大祭でなかなきゃならないということが、いよいよ感じられます。ね。だから、そこんところの開きというか、そこのところの信心が、どういうところから違うて来るのであろうか、と。それはやっぱりですね、もう長年の教会、歴史を持った教会で、本当にわずかばかりの御信者さんがおられまして。まあ、その教会を維持して行くことのために、そこにそれだけの信者さんがおられるというような教会も、たくさんやっぱある訳です。ね。
 本当の助かりという生き生きとしたものがない。けれども、やはりそこんところのお客さんと言うですかね、言うならば。お客さんの顔ぶれというものはいつも同じで、そのお客さんは、そこのお店が立っていくことだけのために、そのお客さんが少しばっかりあるというようなのも、沢山ある。ね。
 ですから本当に、これはやっぱし考えなければいけん。なら、合楽辺りでもです、厳密に言うて、そういうところも猛反省されて行かなければならんと思うです。私は今朝、ここの庭に出て御祈念をさせてもらう時に、天地をこう拝ませてもらう時に、とこう、大空を仰いでこう、拍手して拝むんですけれどもね。もう、大空いっぱいにね、私は頂くことが、あのキリスト、キリスト教のこう拝む対象。キリストがあの十字架にこう、上がっておられるのがありますよね、あれは何と言うか知りませんけれども。
 いわゆる、まあ、お道で言うなら、氏子ですかね。人間の罪の贖いのために、キリストは十字架上に上がったと、こう言われております。それを、もう私が、大空いっぱいにですね、十字架上に、こうキリストが、こう、いわば張り付け台の上にのぼっておられる姿を拝ませて頂いたんですけれど。
 どういうことであろうかと、こう思うた。ね。お道では、そういう言葉は使いませんですね。罪のあるがないといったような、罪ということすら、言葉には使いません。罪はないのだと言うのですよね、お道の信心は。ね。けども、どういうことであろうかと私は思わせて頂いて、なら、御祈念を終わらせてもろうてから、この九十五節を頂いてです、はあ、改めてこういうことではなかっただろうかと、私は感じさせて頂いたんです。言うならばですね、まあ、そして今のこの親教会の通知のこれをですね、ちょっと見せて頂きながらですね、これは例えて言うと、まあ、商店ですね、夏の売り出しなら、夏の大祭が夏の売り出しに見えてしょうがなかった。ね。
 中に書いてあるのは、特価品のそれに見える感じでした。もう、して、今日はここんところに、神を商法にしてはならんぞと仰るからです、そういうようなことの為の、いわばチラシのような案内であってはならないな、と。同時に、ただ人を大祭の時には沢山集めさえすればいい、たくさん集まって、いわゆる大売り出しの効果が上がりさえすればいいといったようなことであってはならい、と。
 たしかに、あちらの大売り出しでこういう特価品が、こういう風にして便利して、こういう風に安かったと本当にお客さんにお客さんに喜んでもらえれる大売り出しでなかなきゃならない。大祭でも、本当にそうである。例えば、前々から思いに思いを込めさせて頂いて、今度の御大祭には、今度の御大祭にはと思いを込めさせて頂いて、なら、その思いが結集されて御大祭が仕えられたら、その後がです、御大祭を境に例えばおかげを頂いた、信心が進展したというようなです、ことになって来なければ、これは神様に対して相済まないなと、私は思うた。ね。
 そこでです、そういうおかげを頂くためには、それこそ信者氏子の罪の購いではないですけども、信者に成り代わっての信心。信者に成り代わっての修行。ね。場合には、自分の身に引き受けての信心。ね。そういう信心が、取次者としては出けなければならないなということを、ちょうど、その事から感じさせて頂いたです。ね。キリストは、ね、世の中の人間の罪の購いの為に、張りつけ台の上に上られた。ね。
 なら、お道の一心、この教会でお取次をさせて頂く者の信心、先生は、ね、信者のただお取次をするということだけではなく、ね、信者に行き届かないところがあるなら、そこを詫び。ね。足りないとこは、継ぎ足してでも、信者が修行が出来んなら、その修行のところは、いわば、私がさせて頂きますからというような思い、願いの元にお取次をなされなければならないもんだなということを、私は今日は痛感しました。
 それはやはり、そういうことになります。私どもの場合はそうです。ね。初めてお参りをして来たり、まだ信心の初心の人達の場合なんかは、そう信心なこういうものだという事を言うても分からん。問題は、おかげさえ頂けば、とにかく苦しいから参って来とるのですから。ね。
 私はまず、おかげを見せてください、おかげをやって下さい、と。その代りに、私が修行致しますからという意味のお取次をさせてもらう、ここでは。ね。また、実際の上に、今はそういうことは非常に少ないですけれどもね。あの、私が神前奉仕をした後ね、もう大変、胃が痛むんですよ。胃が痛むと、すぐその直後にはね、胃が悪いち言うて、お願いに来る人がある。ね。
 まあ、そういう例は、もうその時分な、大変たくさんありました。頭の悪い人は、頭が痛くなる。ね。これは、私はやはり、まあ、罪の購いという訳じゃないでしょうけれども、その願いに来る信者の苦しみというものをです、まず、取次者がそれを引き受けての願いというものをさせて頂かなければならないということだと、こう思うですね。ね。
 ですから、そういう例えば大売り出しにね、それこそ出血売り出しとかね、犠牲的な奉仕とかいう風に申しますがです、そういう、まあ、出血売り出しというかね、そういう信者氏子が本当に助かって下さることの為にです、先生たる者、取次者たる者は、そういう修行を惜しんではならない、といったようなことを、まあ、感じます。そういう、例えば罪の購い的な信心、そういう修行の働きというものが、その教会にあっておるかどうかという事なんです。
 そこにですね、私は例えば、同じ通知は通知であってもです、ね、いわゆる、商店の(売らんか?売らんなん?)のためのチラシになったり、これが本当に、人が助かることのために、この案内が出されたかの開き違いというものが、そこに感じられ、ある。また、結果においては、それを境におかげを受ける受けないがある、ということになります。ね。
 ですから、本当に食べることの為に、例えば私なら私がここに座らせて頂くというのと、信者が取次助けられることのためには、ね、それこそ命をかけてのお取次。ね。私が修行をいたしますからというような、私は信心というものの、同じ形であっても、そこの違いが、この教会に生きたひれい、または、ではないの違い、開きになって来るんだという風に、今日は思わせて頂きました。
 いかに、どのような素晴らしいことを言うておってもです、いかに実意丁寧そのもののようにしておられてもです、そこの先生が。ね。取次の働きというものが、本当にそのようにして生き生きとして、あっていないとするならです、これは本当に考えなければならない。
 これは、いかにも教祖の仰るような、神を商法には使うとらんと言うても、使うとると同じような結果になってはおらんかと、反省しなければならないと、私は思いますね。ね。同時に私は、その取次を願わせてもらう、なら御信者さん側としてもです、ね、それこそ、まあ、(人生辺りで?神社辺りで?)結婚式、それの方が簡単だから。何々神社に頼む、と。ね。神聖であるべき、いわゆる結婚式というものがです、を、神聖なものとせずに、本当に神の加護を受け続けさせてもらう、これからとても、また受けなければならんから、真心込めて神主さんにお願いをして、結婚式をしてもらうというようなものがないとするならね、これはやはり、頼む方の側にも責任があると、私は思いますね。
 教祖様のように、ね、いわゆるまだ、お百姓をなさっておられる時代に、お子様がお二人ほうそうにかかられた。一人は、医者、薬、神仏に願われてのことでございましたけれども、あえなく亡くなられた、一人は助かられた。そういう時に、まあ、教祖様の思いかえというかね、そういう思いかえの、まあ、素晴らしいことを感じるのですけれども。
 本当に、ね、これだけお願い致しましたのに、子供が助かりませんでしたとは仰らずにね、これは私の信心の不行き届きとして、神様に詫びておられます。助かった方のは、信心も出来ませんのに、お助けを頂いて有り難いと、神主さんを呼んで、神主さんにそん時のお礼のことが細々書いてありますね。ね。をされて、お礼のお祭りをしておられます。
 だから、頼む方の側がそれだけ実意丁寧を持って神主さんに頼むならです、神主さんもやはり、その気になって神様にそのことを願われたり、お礼を言われたりされなければならないことになって来るのじゃないでしょうか。例え、なら私がです、商売気が強うしてから、まあ、商売のために、なら、その、まあ、御取次をさせて頂いておってもです、信者の中にそれだけの実意丁寧を込めた人があってです、どうぞよろしくお願いしますという事になりゃ、ホッとやっぱり自分を取り戻させて頂いて、はあ、私はこげな取次じゃいかんな、これは本気で真心で、一心に御取次させて頂かにゃいけんな、と私だって思うだろうと思うです。
 ですから、ここんところがね、やはり取り次ぐ者も商法であってはならない。または、取次を願う者もです、まあ、金の百円なら百円のお初穂を包んで頼んどきゃ良いからといったような気休めのようなお取次の願い方ではいけない。やはり、思いに思いを込めてのこと。ね。
 ここも、いよいよ二十日は御大祭。まあ、いつもお酒一升お供えしよるけん、もう、それでよかといったようなことじゃいかん。お酒一升は、それはお酒一升で良いけれども。ね。それがです、思いを込められたものでなからなければいけないということ。ね。そこに、取次ぐ者、取次を願う者のですね、本当の信心がそこから生まれてくる。ね。
 ただ、形式、形というだけの御大祭に終わったんでは、その後のことですらが、やはり生きた働きにはなって来ないと、私は思う。ね。今日はそういう意味においてですね、今日はこの九十五節を頂きました。ね。ただ、簡単主義、(かんえい)主義で、ね、お祭りという、これは信心はなされるものではなくて、どこまでも思い、どこまでも真心というものがなからなければならないということ。
 また、それを取り次ぐ者も然り。それこそ、キリストの罪の購いではないですけれどもです、ね、信者にお粗末ご無礼のところがあるならば、そのことを私が成り代わってでもお詫びをさせてもらい、不行き届きのところは、取次者がそこんところを足してでも神様に御取次をさせてもらうといったようなね、信心になって来る時に、教祖様の御信心が、百年が二百年、先年経っても、そういう精神が失われない限り、生き生きとしたごひれいが、その教会に、信者の上に頂けて来るようになると思います。ね。
 けれども、まあ、あそこの教会はあんまりお付き合いじゃないから、まあ、熱いから、汗が出るから、装束はもう悪かつば持って行こうというような先生達が千人万人出けたってです、もう、決して生きたお取次の働きということになって来ない。ね。
 先日から、私がその、大払いを大きな声であげるあげないがどうちゅうことじゃないけれども、堤さんが言うておられるように、旗崎の教会にお供をさせて頂いて、お祭りがいよいよ始まった。一生懸命の、いわばなからなきゃならんのに、先生方の中に、まあ、ここの若先生だけは、もうそれこそ、もう一生懸命。ここで大払いをあげるようにして、汗ぶるぶるになって大払いをあげとるのを見てから、堤さんが思われた。
 はあ、私は良い若先生を頂いて有り難いと、もう、本当に痛感したと言うて、帰ってから言うておりますようにです。もう、装束を汗が出んごと、もう、汗ん出らんごとそろそろやろうちゅうごたる風なことではね、本当のお祭りが仕えられるはずがない。それは、声を大きくしないじゃない。私どもは全然、声もあげるも、言いもせんのですからね、言うならば。問題は、その内容です。
 内容が生き生きと神様の方に一心、神様にその一心がね、貫くような内容を持ってのことかどうかということを確かめてね、私どもは今度の大祭にもおかげを頂きたい。今日はまた、今も申しますように、親教会の夏の御大祭でございますから、大勢どうぞ、お参りが頂きまして。ね。先方はどうであろうと、こちらを、願う方の側、拝ませてもらう方の側としてはです、どうでも真心を込めた、いわゆる御大祭であらなければならない。はあ、誰々先生のお説教。そんなら眠気がつく。
 いや、眠気がつくじゃない、どういう例えばお話の中からでもです、そういう私は思いを持って行くなら、必ず、それに対する(お移り?大御釣?)という、はあ、お参りをして良かったというものが頂いて帰って来れると、私は思う。これは、もういつも、それを体験する。いわゆる、御勤めで参るのじゃない。やはり、思いを込めてのご参拝にならなければならないという事ですよね。同時に、御参りが出けない方、お初穂を託けられる方は、事務所にどうぞ出して頂きますように御願い致します。どうぞ。